自分の存在を知るには!?自己否定から抜け出す「ミリンダ王の問い」の物語。

ストーリー

 

どうも、たかです。

 

自分を否定すると

何も信じれなくなります。

 

生きていても

元気がない

世界が味気ない灰色に見える

ご飯の味がしない

 

 

こんなことになりかねません。

 

自分の存在が分からなくなります。

 

何で生きているのだろう

自分の存在はどういう存在なのか。

 

いろいろ考え込むようになります。

 

 

気になる

その”自分の存在”とは

一体何!?

 

色即是空、空即是色

いきなり仏教用語ですみません。

 

色即是空、空即是色。

「色これすなわち空であり、

 空これすなわち色である」

 

 

どういうことかというと

 

存在には実体はなく

その実体がないものこそが

存在の正体

 

ということです。

 

 

僕たちが『存在している』と

認識しているものはすべて

僕たち自身がそういうふうに

存在するように『区別』しているからこそ

 

そういうふうに存在しているのであり

決して『そういうもの(実体)があるから

存在している』のではないのです。

 

 

逆に言い換えれば

 

そういう実体のないもの

(区別のための境界線を引いたことで

現れただけのもの)こそが

僕たちにとって『存在するもの』です。

 

このことについての物語があります。

ミリンダ王の問い」を

紹介しますね。

 

 

ミリンダ王の問い

あるとき、ミリンダ王は

高僧のナーガセーナにこう問いかけた。

 

「おまえがナーガセーナか?」

 

 

ナーガセーナは答えた。

 

「はい、そう呼ばれています。

が、それは『名称、概念、慣用』での

ことであり、そこには『ナーガセーナ

という実体はありません

 

目の前にナーガセーナ本人がいるのに

実体がない(空である)」とは

どういうことか、訝しがった王は、

重ねて問いかけた。

 

 

「ナーガセーナよ、もしあなたに実体がない

というのなら、誰が法衣や食事や寝具や医療品を

受けとるというのか。

誰が修行を実践しているというのか。

 

また、もしおまえを殺しても

それは殺生ではないということでよいのか。

だいたい、おまえが

『私はナーガセーナと呼ばれています』と言うなら

 

そのナーガセーナとはいったい何なのか

その身体がナーガセーナではないのか?」

 

 

「いいえ、違います。爪や歯や肉や骨が

ナーガセーナなのではありません

 

「では、見たり感じたりする認識作用

意識こそがナーガセーナだというのだな?」

 

いいえ、違います

 

「そうであれば、もうどこにもナーガセーナ

を発見できないではないか。

おまえはウソをついて私をからかっているのか」

 

 

まったく要領の得ないナーガセーナの回答に

王は頭を抱えた

すると、突然、ナーガセーナは話題を変えた。

 

「しかし、今日は暑いですねぇ

そういえば王はこの熱い地面を

踏みつけて徒歩で来たのですか?」

 

「いや、馬車で来たが」

 

 

「では、王よ、

今度はこちらから問いますが、

馬が馬車なのですか?

 

「いいや、違う。馬は馬だろう

 

「では、

手綱が馬車なのですか?

車輪が馬車なのですか?

鞭が馬車なのですか?」

 

 

いいや、違うな

 

その答えを聞いて

ナーガセーナは笑って言った

 

「そうであるならば、もうどこにも

『馬車』なるものは発見できないではないですか。

 

王は『馬車』に乗ってきたとおっしゃいますが

ウソをついて私をからかっているのですか?」

 

うーむ、と王は唸った。

 

 

「なるほど、つまり、馬によって

車輪によって、手綱によって

馬車という『名称、概念、慣用』が

起きており、そこには『馬車』という

実体はない、そういうわけか」

 

「実に結構です、王よ。

あなたは『馬車』というものを理解なさいました。

私もまた爪や歯や肉や骨や意識によって

ナーガセーナという名称のものが

起こっているにすぎません。

 

 

そこに『ナーガセーナ』という確固たる

実体が存在しているわけではないのですよ。

王よ、釈迦が生きていた時代、こんなことが

言われていたと聞いています。

 

『部分の集積によって車という語があるように

要素があってそれぞれの名前がある』と」

 

 

以上の物語が

ミリンダ王の問い」である。

 

思い込み

僕たちは「ある要素の集まりからある部分

だけを切り出して名前をつけているだけ」であり

 

 

その名前にあたるものが

独立した確固たる、永遠普遍の何か

としてそこに存在している

わけではないのです。

 

本来、世界の真の姿とは

「AともBとも言えないような

どっちがどっちにとも言えないような

そんなすべてがドロドロに混じりあった

海のようなもの」です。

 

 

僕たちは、そんな「ドロドロの海

(すべてがつながった巨大な関係性)」

の中から、わざわざ「これをA

あれをB」として区別して切り出し

 

また、「A→B」という特定の方向の

関係性のみを切り出し、「○○現象

などと名付けたり「AがBに○○した

などと語ったりしているのです。

 

 

僕たちはそういった

言葉が世界の真の姿を表していると

思い込んでしまっているのです。

 

なので

自分という存在は”ない”がある

ということになります。

 

 

自分が何で存在しているのか分からない

のもムリはないと思います。

 

その存在は”ない”のですから。

 

最後まで見て頂き

ありがとうございました。

 

 

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