どうも、たかです。
自分を否定すると
何も信じれなくなります。
生きていても
元気がない
世界が味気ない灰色に見える
ご飯の味がしない
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こんなことになりかねません。
自分の存在が分からなくなります。
何で生きているのだろう。
自分の存在はどういう存在なのか。
いろいろ考え込むようになります。
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気になる
その”自分の存在”とは
一体何!?
色即是空、空即是色
いきなり仏教用語ですみません。
色即是空、空即是色。
「色これすなわち空であり、
空これすなわち色である」
![](https://cdn.pixabay.com/photo/2022/06/24/17/35/relaxation-7282116_640.jpg)
どういうことかというと
存在には実体はなく
その実体がないものこそが
存在の正体。
ということです。
![](https://cdn.pixabay.com/photo/2023/03/14/04/46/coffee-7851453_640.jpg)
僕たちが『存在している』と
認識しているものはすべて
僕たち自身がそういうふうに
存在するように『区別』しているからこそ
そういうふうに存在しているのであり
決して『そういうもの(実体)があるから
存在している』のではないのです。
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逆に言い換えれば
そういう実体のないもの
(区別のための境界線を引いたことで
現れただけのもの)こそが
僕たちにとって『存在するもの』です。
このことについての物語があります。
「ミリンダ王の問い」を
紹介しますね。
![](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4d/King_Milinda_ask_questions.jpg)
ミリンダ王の問い
あるとき、ミリンダ王は
高僧のナーガセーナにこう問いかけた。
「おまえがナーガセーナか?」
![](https://cdn.pixabay.com/photo/2019/04/26/17/26/meditation-4158110_640.jpg)
ナーガセーナは答えた。
「はい、そう呼ばれています。
が、それは『名称、概念、慣用』での
ことであり、そこには『ナーガセーナ』
という実体はありません」
目の前にナーガセーナ本人がいるのに
「実体がない(空である)」とは
どういうことか、訝しがった王は、
重ねて問いかけた。
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「ナーガセーナよ、もしあなたに実体がない
というのなら、誰が法衣や食事や寝具や医療品を
受けとるというのか。
誰が修行を実践しているというのか。
また、もしおまえを殺しても、
それは殺生ではないということでよいのか。
だいたい、おまえが
『私はナーガセーナと呼ばれています』と言うなら
そのナーガセーナとはいったい何なのか。
その身体がナーガセーナではないのか?」
![](https://cdn.pixabay.com/photo/2014/03/24/13/45/thinking-294276_640.png)
「いいえ、違います。爪や歯や肉や骨が
ナーガセーナなのではありません」
「では、見たり感じたりする認識作用
意識こそがナーガセーナだというのだな?」
「いいえ、違います」
「そうであれば、もうどこにもナーガセーナ
を発見できないではないか。
おまえはウソをついて私をからかっているのか」
![](https://cdn.pixabay.com/photo/2013/07/13/01/20/martin-luther-king-155551_640.png)
まったく要領の得ないナーガセーナの回答に
王は頭を抱えた。
すると、突然、ナーガセーナは話題を変えた。
「しかし、今日は暑いですねぇ。
そういえば王はこの熱い地面を
踏みつけて徒歩で来たのですか?」
「いや、馬車で来たが」
![](https://cdn.pixabay.com/photo/2017/01/31/20/40/brougham-2027126_640.png)
「では、王よ、
今度はこちらから問いますが、
馬が馬車なのですか?」
「いいや、違う。馬は馬だろう」
「では、
手綱が馬車なのですか?
車輪が馬車なのですか?
鞭が馬車なのですか?」
![](https://cdn.pixabay.com/photo/2020/04/09/19/53/stagecoach-5022912_640.png)
「いいや、違うな」
その答えを聞いて
ナーガセーナは笑って言った。
「そうであるならば、もうどこにも
『馬車』なるものは発見できないではないですか。
王は『馬車』に乗ってきたとおっしゃいますが
ウソをついて私をからかっているのですか?」
うーむ、と王は唸った。
![](https://cdn.pixabay.com/photo/2023/05/12/22/32/ai-generated-7989424_1280.png)
「なるほど、つまり、馬によって
車輪によって、手綱によって
馬車という『名称、概念、慣用』が
起きており、そこには『馬車』という
実体はない、そういうわけか」
「実に結構です、王よ。
あなたは『馬車』というものを理解なさいました。
私もまた爪や歯や肉や骨や意識によって
ナーガセーナという名称のものが
起こっているにすぎません。
![](https://cdn.pixabay.com/photo/2018/10/08/17/36/meditation-3733111_640.jpg)
そこに『ナーガセーナ』という確固たる
実体が存在しているわけではないのですよ。
王よ、釈迦が生きていた時代、こんなことが
言われていたと聞いています。
『部分の集積によって車という語があるように
要素があってそれぞれの名前がある』と」
![](https://cdn.pixabay.com/photo/2016/01/18/14/02/old-car-1146597_640.png)
以上の物語が
「ミリンダ王の問い」である。
思い込み
僕たちは「ある要素の集まりからある部分
だけを切り出して名前をつけているだけ」であり
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その名前にあたるものが
『独立した確固たる、永遠普遍の何か』
としてそこに存在している
わけではないのです。
本来、世界の真の姿とは
「AともBとも言えないような
どっちがどっちにとも言えないような
そんなすべてがドロドロに混じりあった
海のようなもの」です。
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僕たちは、そんな「ドロドロの海
(すべてがつながった巨大な関係性)」
の中から、わざわざ「これをA」
「あれをB」として区別して切り出し
また、「A→B」という特定の方向の
関係性のみを切り出し、「○○現象」
などと名付けたり「AがBに○○した」
などと語ったりしているのです。
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僕たちはそういった
言葉が世界の真の姿を表していると
思い込んでしまっているのです。
なので
自分という存在は”ない”がある
ということになります。
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自分が何で存在しているのか分からない
のもムリはないと思います。
その存在は”ない”のですから。
最後まで見て頂き
ありがとうございました。
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